2012年10月27日土曜日

「土、自分、社会とつながることが幸せへの道」と、サティシュ・クマールさん ”The road to happiness is connecting to soul, self, and society." Satish Kumar says. 薩提斯·庫瑪说”和大地,自己,社会连在一起就是到达幸福之路。“

 わが家は、小さな家で庭もないが、少しだけ、地面がある。これは幸運なことだ。とても大切だと思っている。コンポスター(生ごみ堆肥化のためのフタ付きさかさバケツ)のある土のあたりに流してしまう。最近、台所で洗いものをするとき、石けんがまじっていなければ、コンポスターのある土のあたりに流してしまう。石けんがまじっていれば、分解に時間がかかりそうだから、コンポスターがない地面に流してしまう。大地に住む細菌たちがよごれた水を吸い込み分解してくれる。下水道システムで電気を使って汚水を運び、そして、エネルギーや資源を使って浄化する必要がないのだ、なにか嬉しいと思う。環境オタクですから。でも、いつもそうはいかない。余裕がなくて、下水にありがたく流させてもらうことのほうが多い。それから、せまい地面なのに、ここにはカエルも住んでいる。(写真)もう10年以上は住んでいる。むかし畑や池がまわりにあったころに生まれたのだと思う。もう子孫を残すことはできないだろう。ヤモリや、かべちょろ(トカゲのような恰好をしているシマヘビ)もいる。
 こういう土とのつながりは、大事だということとつながるのが「ナマケモノ倶楽部」世話人の辻信一さんが書いた本『幸せって、なんだっけ』のなかに紹介されていたサティシュ・クマールさんの言葉だ。一度、講演会で握手もさせていもらった、私も敬愛するインドの宗教家は、若いときにガンジーの教えに感銘を受けて、核兵器の廃絶を求めて世界中を歩く巡礼の旅をした人である。E・F・シューマッハーとともにエコロジーと平和の雑誌「リサージェンス」を発行し、彼の死後は、シューマッハーカレッジという教育機関などを設立した人である。[1]そのサティシュ・クマールさんが2007年に来日した際の話(私も聞いていたはずだが)がこの本『幸せって、なんだっけ』の中に紹介されているなかに、土とのつながりの大切さを示すことばがあった。3つのSの中にこそ、本当の豊かさがあるという。「いや、この世のすべての豊かさがそれらの中にあると言ってもいい。そしてこの3つとつながることこそが、幸せへの道です。『ソイル、つまり地球とつながる』、『ソウル、つまり自分とつながる』、『ソサエティ、人々とつながる』。こう言い換えてもいい。『ソイル、つまり地球を大切にする』、『ソウル、自分を大切にする』、『ソサエティ、人々を大切にする』。この3つは実は同じことの3つの側面にすぎません。」[2] ただし、大切にしようと思って、ホイホイと、誰しも、大切にできるものではないのではないか。とくにとてもつらい目にあってきた人ほど、難しいのではないか。できるようになるためには、3つとも、それぞれを肯定できるようになるための、なんらかのトレーニングが必要になる気がする。私も「肯定する習慣」をつけるために、座禅のまねごとをして肯定・幸せを意識的に感じようとしてみたり、していて、まだまだうまくいかないが、すこーしずつ前進しているかなもしれない。
 土とつながるのに、自宅に土がないといけないわけでもない。土があるところに行けばいい。今年、はじめて区民農園を借りて、はじめてプランターでなくわずか5m四方程度の「農地」で農作業というものをしたが、自分にとっては、土とのつながりのスケールが、格段に大きくなる体験だった。


[1]辻信一『幸せって、なんだっけ』ソフトバンク新書、2008年、pp. 226-227
[2]同上 p. 230
 
Satish Kumar is an Indian activist and editor. He has been a Jain monk, nuclear disarmament advocate, pacifist, and is the current editor ofResurgence & Ecologistmagazine. He says. ”The road to happiness is connecting to soul, self, and society." For this connection, I guess we need to have a habit of being positive about these three.  For that, it should help by some ways of perceiving ourselves including  if we can remember that we have been part of the whole universe and an irreplaceable part of the it.   
  薩提斯·庫瑪印度社会运动家、和平朝圣者、学者教育家及精神导师。他9岁离家成为四处游荡的耆那教徒,18岁还俗,投入由圣雄甘地开创的印度土地改革及和平运动。1963年,他20岁,决定和一位朋友开展“和平朝圣”,由印度步行到世界四大核子武力中心,即莫斯科巴黎伦敦华盛顿。他们遵照导师指示,不带钱上路,并全程素食。靠着陌生人提供的食物和地方过夜,他们走完了超过8,000英哩的旅程,并向四个国家的领袖表达了反核的声音。自1973年起,他在英国德云郡定居,积极推动和平环保运动。他坚持认为,每一项政治及社会辩论的核心都必须是敬畏自然。(维基百科)他和大地,自己,社会连在一起就是到达幸福之路。”我想,为了实现这个,有最大关键性的是,学习尽量经常不忘肯定自己和其他一切的办法。
 
 

2012年8月25日土曜日

朝のすずしい風で幸せに Cool wind in the morning made me happy  早晨的凉风让我感到幸福

朝7時に起きて机にすわったら
網戸をとおった涼しい風が首のうしろをなでてくれた。
とてもきもちよかった。
風で幸せと思えるのははじめてだけれど、
幸せって、やっぱり、こんな僕でも、
感じようとすれば、感じれるんだなぁー。

2012年8月10日金曜日

まだまだ無意識(不在)になっている自分に気づきました。I noticed myself is still act unconsciously so often, which means I have some room to be happier. `我发现自己还是常常无意识地行动。这含义是我还有变更加幸福的余地。


きのう今日で、無意識にモノをおいて、どこにおいたかわからないことが2件発生しました。私は、とっても無意識に行動して自分の行動をおぼえていないことが多く、いつもケータイをどこかにおきざりにして、さがすのに苦労するのですが、それに輪をかけたことが連続でおきました。卓上塩の容器と家族が使おうと階段においていた黄色いポリ袋、持ったことはおぼえているけど、どこにおいたか、まったく記憶になく行方不明になって、探してもなかなか見つからなくなりました。ときどき自分の行動を見ていないのだということをあらためて思い知らされました。白隠さんは、「暫時不在」(暫時我を忘れる)ようでは生きているとはいえない、と言っていますが、私自身まだまだ不在になることばかり。つまり、これは幸せになる余地を示していると思いました。ただ、。一方で、何を食べようが、何で時間をつぶそうが、自分を責めずに、それをありがたく、肯定し、幸せを感じながらふりかえる、ことができるようになってきました。これは良かったと思います。レベルが低いから、伸びしろはけっこうあるぞ、ということですね。(笑)

2012年7月9日月曜日

違いへの意識から自由になると,劣等感も優越感から自由になれるような気がします。One of the clue for happiness may be realizing that we can care less about difference with other people or creatures, or things and become free from inferior or superior complex. 感到幸福的关键之一可能是更能摆脱对和别的人,生物,东西的差别感,和,优越感/自卑感。

 とっても、ひさしぶりに書きます。
 無差別、つまり、べつになにがまさっているとか、おとっているとか、考えなくていいとういう発想が、老荘思想や禅にもあるようです。絶対に、というきついので、だいたいと考えたいです。

無門関という本では、ある僧が雲門和尚に、仏とはどのようなものかとたずねたら、それは乾屎橛(かんしけつ)(?????)だよといったそうです。「すべてがそのまま仏であるという意味であろう。」
 これに対応するものとして、『荘子』知北遊篇で、東郭子(とうかくし)が荘子にたずねた。道はどこにあるかと。荘子は、「どこにだって、ないところはないさ」・・・・「屎(??)や溺(??)にだってあるさ」「物みな自然であるとき、それぞれが道であり、仏である。私意にもとづく人為によって求めようとするとき、かえって道は見失われ、仏は隠れる。これが両者に共通する思想であろう」[1]
 ましてや、自分やだれかとくらべて、だれがすぐれているとか、だれがおとっているとか、考える必要はないということです。これが幸せを感じられるカギのひとつのように思えます。
(?の部分は、ご想像におまかせします。(・x・))

[1] 森 三樹三郎『老子・荘子』講談社学術文庫、1994年、p.408-409