2012年7月9日月曜日

違いへの意識から自由になると,劣等感も優越感から自由になれるような気がします。One of the clue for happiness may be realizing that we can care less about difference with other people or creatures, or things and become free from inferior or superior complex. 感到幸福的关键之一可能是更能摆脱对和别的人,生物,东西的差别感,和,优越感/自卑感。

 とっても、ひさしぶりに書きます。
 無差別、つまり、べつになにがまさっているとか、おとっているとか、考えなくていいとういう発想が、老荘思想や禅にもあるようです。絶対に、というきついので、だいたいと考えたいです。

無門関という本では、ある僧が雲門和尚に、仏とはどのようなものかとたずねたら、それは乾屎橛(かんしけつ)(?????)だよといったそうです。「すべてがそのまま仏であるという意味であろう。」
 これに対応するものとして、『荘子』知北遊篇で、東郭子(とうかくし)が荘子にたずねた。道はどこにあるかと。荘子は、「どこにだって、ないところはないさ」・・・・「屎(??)や溺(??)にだってあるさ」「物みな自然であるとき、それぞれが道であり、仏である。私意にもとづく人為によって求めようとするとき、かえって道は見失われ、仏は隠れる。これが両者に共通する思想であろう」[1]
 ましてや、自分やだれかとくらべて、だれがすぐれているとか、だれがおとっているとか、考える必要はないということです。これが幸せを感じられるカギのひとつのように思えます。
(?の部分は、ご想像におまかせします。(・x・))

[1] 森 三樹三郎『老子・荘子』講談社学術文庫、1994年、p.408-409

0 件のコメント: