とっても、ひさしぶりに書きます。
無差別、つまり、べつになにがまさっているとか、おとっているとか、考えなくていいとういう発想が、老荘思想や禅にもあるようです。絶対に、というきついので、だいたいと考えたいです。
無門関という本では、ある僧が雲門和尚に、仏とはどのようなものかとたずねたら、それは乾屎橛(?????)だよといったそうです。「すべてがそのまま仏であるという意味であろう。」
これに対応するものとして、『荘子』知北遊篇で、東郭子が荘子にたずねた。道はどこにあるかと。荘子は、「どこにだって、ないところはないさ」・・・・「屎(??)や溺(??)にだってあるさ」「物みな自然であるとき、それぞれが道であり、仏である。私意にもとづく人為によって求めようとするとき、かえって道は見失われ、仏は隠れる。これが両者に共通する思想であろう」[1]
ましてや、自分やだれかとくらべて、だれがすぐれているとか、だれがおとっているとか、考える必要はないということです。これが幸せを感じられるカギのひとつのように思えます。
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